小学校の事で その17

米軍の基地内は広大で 今の関東労災病院と綱島街道の
 向かいの公園の敷地も含まれて 空襲の焼け残りの
民家も何軒か放置され 父は白人の将校を通じ廃材を
 貰いたいと調髪しながら願い出た。 OKがでて
父の休みの度のリヤカーによる廃材運びが始まった。
 いつも語っていたのがガス橋を渡る苦労話しだ。
あの橋の前身は 東京ガスの1mほどの円形のガス管が
 板張りの橋を両脇に通っていた。
河川敷は野菜など砂地向きの畑が連なって 農家のリヤカー
 と向かい合うと幅の広くなった避難場所があってすれ違う
折角重いリヤカーを引いてきても避難場所に近い方が戻って
 渡るのを譲るのだ。 あの小さな身体で噴き出すほどの
汗を手拭いで拭きながら まっつぐ土手の坂をリヤカーの
 重みに押されながら小走りに下って行った。
玉川小学校へ行くかバラック建ての家の前の学校にするかは
 その父の手製の家に進み具合にかかっていた。
 
もう盛りが過ぎてここへ来るのが遅かった。 三又の花の色が。。

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